2022.5.15

 

 

 

 

 

<沖縄返還>

 日米間の沖縄返還協定が1972年5月15日に発効し、沖縄は本土

に復帰した。米軍統治下の沖縄では、車は右側通行、本土への渡航に

はパスポートが必要だった。通貨は58年まで米軍発行の軍票「B円」など、

それ以降は米ドルが使われた。協定を巡っては、返還にかかる費用を日

本政府が肩代わりする密約があったことが後に明らかに。現在でも沖縄に

は、在日米軍専用施設の約7割が集中。普天間飛行場の辺野古移設を巡

り対立や混乱が続いている。

 

 国際電話→家庭の電話機から

ダイヤルで直接電話ができるように

 

 国際電話は家庭の電話機からダイヤルで直通になりました。本土復

帰前より電信電話事業を行っていた琉球電電公社は、国際電話の設備

を増設。復帰直後の多忙に備えて本土からベテラン交換士が10人応援

にやってきました。

復帰後は、国内業務は日本電信電話公社、国際業務は国際電信電話

株式会社が継承しました。

 

 

小笠原諸島は、サンフランシスコ平和条約第3条で、アメリカを施政権者と

する信託統治をアメリカが国際連合に提案するまでは、アメリカの統治権の

下に置かれると規定されていましたが、昭和37年(1962)3月、ケネディ・

アメリカ大統領は、南西諸島が日本領であることを言明。その後、日米間

の協議を経て、昭和43年(1968)4月5日、「南方諸島及びその他の諸島

に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」が調印され、同年6月12

公布、26日に発効し、小笠原諸島は日本に復帰しました

しかししかししかし、返還50年。硫黄島で「玉砕」という名の絶望的な戦いを

強いられ、命を落とした多くの兵士の遺骨は、いまだに島に眠り、遺族の元

に帰れま

せん。かつて強制疎開を強いられた島民も、帰郷はかないません。

平成が終わろうとしている今も、硫黄島の戦後は続いています。

 

奄美群島の復帰協定が日米間で調印され(昭和28年(1953)12月

24日)翌25日、復帰が実現しました。奄美群島については、沖縄や

小笠原諸島などとともに、サンフランシスコ平和条約第3条で、アメリカ

を施政権者とする信託統治をアメリカが国際連合に提案するまでは、

アメリカの統治権の下に置かれることを規定していましたが、復帰協定

の締結・発効により、日本復帰が実現しました。

敗戦後敗戦後、米統治下に置かれた鹿児島県奄美群島は25日、

1953年の日本復帰から66年を迎えた。米側が「クリスマスプレゼント」

と称した施政権返だった。

祝賀に沸く群島民の中で、奄美の復帰を喜びながらも依然米軍に支配

された故郷を思う人々がいた。

奄美では46年3月に本土出身の「日本人」が公職から追放されて鹿児

島へ強制送還され、10月に「奄美人」による臨時北部南西諸島政庁

発足、50年11月には奄美群島政府に昇格し、ちょっとしたミニ国家の

ようになった。

米軍の指令によって、本土企業の支店や営業所は接収されて公営企業

となり、大島中央銀行も誕生した。群島政府知事や群島議会の選挙に先

駆けて、協和党や社会民主党などの独自政党が生まれ、地下組織として

結成された奄美共産党は当初「奄美人民共和国の独立」を掲げた。

しかししかし、4つの群島知事選の結果はいずれも「日本復帰の実現」を

公約にした候補が勝利したため、不愉快になったアメリカは51年4月、

新たに琉球臨時中央政府を設立し、群島政府は廃止することを決定。

翌52年4月に琉球政府を発足させた。琉球政府のトップである主席は

公選ではなく米軍からの任命で選ばれ、親米派の元英語教師を主席に

据えた。こうして奄美の行政は沖縄と一体化することになった。

1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約では、琉球列島

(日本式に言うと南西諸島)は正式に日本から切り離されてアメリカの

施政権下に置かれた。平和条約の調印を前にして本土復帰運動が急

速に盛り上がったが、なかでも激烈だったのが奄美。復帰要求の署名

運動では、14歳以上の住民のうち99・8%もの署名が集まり(沖縄本

島では72%)、数千人規模で村ぐるみの断食祈願(つまりハンガースト

ライキ)が繰り返された。

なぜかというと、日本と切り離された打撃は沖縄より奄美の方が大き

かったから。アメリカ統治が始まってから本土との往来は禁止され、後

に緩和されはしたものの本土へ行くにはパスポートが必要になったし、

渡航許可は那覇を経由して申請したので手続きに数週間かかる。本土

への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられたため売れなくなり、

日本政府や鹿児島県からの補助金はストップしたうえ、アメリカからの

援助は沖縄本島の復興が優先されたので奄美にはほとんどまわってこ

なかった。このため奄美住民の生活は困窮し、沖縄のように基地産業

で潤うこともなく、人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ

移っていった。